震災体験・防災

大阪北部地震の体験から学んだ災害への備えの重要性(体験編)

どうもド父ちゃんです。(@dotou0703)

今年の漢字は「災」。

今年は災害が多い年でした。特に恐怖したのは大阪北部地震。

今回のい記事は大阪北部地震について書かせていただきます。

前半は体験記。
後半は防災グッズの紹介記事。

の2部構成で書かせていただきます。

大阪北部地震を経験して

地震の日時は忘れもしない6月18日7時58分

当時私は会社へ出勤するため大阪駅におり、乗り換えのためエスカレーターに乗っておりました。

揺れを感じたのは一瞬でした。「ガタガタ」と建物の揺れ、ガラスが軋む音がしたと思ったらすごい揺れが襲ってきました。

その時は「震度4かな。震源地どこかな。」と携帯の警報見ながら思っていました。JRは多分止まっているから戻れない。地下にいるのもまずいし、地上に出て歩いて会社に向かう方が安全と判断し、すぐに地上に出ました。

「こんなときに会社行くのか。」と思う人がいるかもしれませんが、会社があるオフィスビルの方が耐震性と免震性が高く、倒壊の恐れもないのでそれが一番安全と判断したからです。

外を歩いているといつまた強い揺れが来るか分からず、地震で割れた窓ガラスが上から落ちてくる可能性もあります。
ですので急いで会社へ向かいました。

電話が繋がらない。

会社へ向かう途中、家族の安否確認しようと携帯を取り出し連絡をしましたが案の定繋がらず。

不安と戦いながら会社へ向かいました。

当時は、ツイッターをしておらずLINE電話や楽天電話などで連絡を取りましたが回線が混雑して繋がらない状態。

情報も入ってこない。
震源地もわからない。

こんな状況でただ会社へ向かうしかない状態はかなりきつかったです。

やっと状況がはっきりわかったのは、会社についてからでした。

震源地は大阪北部。

この時点で頭が真っ白になります。それは家がある地域だったからです。

「まじかー!!」と心の中で思いました。
またこのときには電波も回復し、家族や友人から「TVで家が崩れ、燃えてる映像出てるけど大丈夫か。」というメッセージが届きますが、状況がわからず、とりあえず自分は無事であることしか伝えられませんでした。

この時やっと家族と連絡がつき全員無事だということが確認でき、安堵したことを覚えています。

しかし、この後第二の悲劇が遅います。

被災地とそうでない地域のギャップ

震災当時は平日で通常営業。

普通にお客様から仕事の電話が入ります。その時、担当のお客様は普通に業務の話をされていました。

その時違和感を感じます。

どうして普通に業務の話ができるの?こんな状況なのに」と。

何故こんなにギャップが生じたのかというと今回被害が大きかったのは大阪北部と大阪市内、京都などでそのほかの地域は被害が少なかったのです。

震度3程度の揺れで被害も少ない。そして、揺れは一瞬。業務に支障がない状態だったのです。

しかし当時は交通機関がマヒし会社に来ていたのは私を含め数人。その状態で通常の業務を回さないといけない。

家の被害状況を確認できないまま通常業務。

もう最悪でした。

結局業務から解放され家に帰宅できたのは夜9時。

そして第三の悲劇に見舞われます。

水とガスが使えない

帰ると家は基礎にダメージがなく、クロスに少しヒビが入る程度で問題ない状況でした。
そして家の中の物が倒れてきていることもなかったです。

しかし、ガスが止まっていました。

でもこれはガスの安全装置が働いていたので解除すれば使えたので助かりました。電気も生きたているのでエアコンも効いている。

「ああ、神様感謝します」と心の中で呟いていましたね。その時は。

しかし、一番大事な水が止まりました。計画的断水です。

ド母ちゃんが機転を利かせて水を容器に貯めてるいてくれていましたので助かりましたが、この断水の状況がいつまで続くか分からず、使用するわけにもいかない。

トイレも流せない。
風呂も入れない。

最悪です。

仕事で疲れて帰ってきていても汗も流せず、濡れたタオルで体を拭くだけ。
トイレも行けず、そのまま布団で寝るしかない。

しかしそのあとさらなる悲劇が襲います。

1時間毎に余震がくる恐怖

仕事が疲れてやっと寝れると思いましたがそうはいきません。大きな地震の後には必ず余震がきます。

1時間毎に震度2から3の余震が遅ってきました。ですので、いつでも逃げれるように寝室には靴と貴重品の入ったバックを置いて逃げれるようにしてました。

ただ当時頭を過ぎったのは熊本の震災。最初の大きな地震は実は余震で、その後に大きな地震がきたために、大きな被害となったあの地震です。

その考えがあるため熟睡出来るわけもありません。

睡眠時間が2時間程度で、常に寝ているド母とドレミを見ながら逃げる事ばかり考えていました。

そして朝を迎えます。

朝に水が復旧したのでシャワーで汗を洗い流せました。しかし、濁った水しか出ません。飲料としては使用できない状態でした。

街は未だにパニック状態!?

朝にはJRが普及しそうだという情報がTVから流れ来ていたので、残してきた仕事やり終えるために仕事に行こうとしていました。

しかし、出ようと考えていた時に震度3の地震が襲い結局休む事にしました。

今考えれば当然の選択ですが、その時には他の地域ではすぐにインフラが復旧していたので仕事に行かないといけないという考えがありました。

しかし被災地では水の普及はまだ完全ではなく、余震が続く。こんな状況下で家族を置いていけるわけがありません。結局その日は、会社には休みを申請しました。

とりあえず、水と食料を確保しにスーパーへ向かいました。しかし、スーパーは食料と飲料を求めにきた人でごった返しの状態

カップ麺や缶詰、水などは売り切れ状態。生ものは売れずに残っていましたが加工食品はもうありませんでした。

朝の9時の段階でこの状態。もう町中パニック状態です。

懐中電灯、ろうそく、マッチなどはかろうじて残っていたので購入し、なんとか一日分の食料をその時に調達し、家に帰りました。

結局その日は大きな地震もなく余震も治まり、水の濁れも午後にはなくなり通常の生活を送れるようになりました。

この震災を通して学んだこと

この地震で学んだことは、たった数秒の地震で日常が非日常に変わる怖さいつ大きな揺れが襲ってくるかも知れないと不安です。

たった一つインフラが止まっただけで私達の今の暮らしが脅かされ、止まってしまう。今の生活は便利で快適ですが、その分暮らしを支える土台が崩れれば一瞬にして崩壊してしまう恐れがあることを知りました。

便利な物は諸刃のつるぎ

昔の不便な時代の方が生き残る可能性が高い気がしました。

ほんのたった一つのピースが崩れるだけでかなり損害が出ます。便利すぎる物がかえって私達に牙をむき、人間に本来備わっている生存本能を弱らせてしまう恐怖。これは本当に怖いです。

また、街全体がパニックになる恐怖です。いつもならあるはずの物が商品棚から消える。我先にと食料品などを買い漁る人々。人間は、いつもの安心した日常が危険をはらむ非日常に変わるだけでこんなにも変わって行くのかということを目の辺りしました。

以上が今回の震災の体験記と学んだことについての記事となります。
防災グッズなどの紹介はこちらの記事に書いております。興味のある方はこちらの記事もお読みください。

地震で被災した体験から学んだ災害への備えの重要性(防災グッズ編)

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